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救い主の生まれるところ ルカによる福音書2章1~7節 2024/12/15

救い主の生まれるところ ルカによる福音書2章1~7節 2024/12/15 赤塚バプテスト教会礼拝説教

聖書―ルカによる福音書2章1~7節
(はじめに)
 今日もアドベント、待降節の礼拝を行っています。朝の礼拝の前に行われる教会学校でも、マタイによる福音書の言葉から、主のご降誕について学びました。東方からやって来た占星術の学者たちが、このように言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2章2節)。
 救い主はどこにおられますか。これは、私たちにとっては、救い主を待ち望む、救い主を求める人たちの声として聴くことができます。私たちに向かって、救い主はどこにおられますか、と尋ねるのです。すると、私たちは、何と答えるでしょうか。もちろん、私たちは、こう答えるでしょう。救い主はここにおられます。救い主は私と共におられます。そして、あなたと共におられます。
 私たちは、私たちに出会ってくださった救い主、私たちと共におられる救い主を、今この時、人々にお知らせしていきたいと思います。そして、一人でも多くの方々と、救い主の誕生をお祝いしていきたいと思います。

(聖書から)
 お読みした聖書は、ルカによる福音書2章1節からです。最初の1、2節からは、イエスさまのお生まれになった時の時代背景を知らされます。
2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
 ローマの皇帝アウグストゥスとありますが、この人が、ローマ帝国の初代の皇帝でした。アウグストゥスというのは、称号で、尊厳ある者、尊敬される者という意味だそうで、元々の名前は、オクタヴィアヌスと言います。この皇帝の時代に、「全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」ということです。2節にありますように、これは、住民登録、今で言う国勢調査のことです。
 イエスさまがお生まれになったユダヤは、ヘロデを王とする独立した国でしたが、実際のところは、ローマ帝国の支配下にあり、ローマ帝国の住民登録の対象でした。「キリニウスがシリア州の総督であったとき」とありますが、ユダヤを含むシリア州をローマ皇帝によって総督として任命されたキリニウスという人が統治していたことが書かれています。
 3節には、このようなことが書かれています。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
 人々は、勅令に従って、住民登録のために、自分の町へと旅立っていきました。その中のある家族のことが、4、5節に書かれています。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
 ここには、ヨセフとマリアのことが書かれていました。ヨセフについては、「ダビデの家に属し、その血筋であった」とあります。ダビデは、イスラエルの王として知られた人でした。同じルカによる福音書1章27節にも、「ダビデ家のヨセフという人」とあり、マタイによる福音書1章20節では、主の天使が、夢に現れて、ヨセフに語りかけた時、「ダビデの子ヨセフ」とヨセフに呼びかけている場面があります。「ダビデの子」というのは、ダビデの子孫という意味です。
 ヨセフは、この当時、ガリラヤの町ナザレに住んでいましたが、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った、ということです。ベツレヘムは、ダビデの出身地でした。ヨセフは、ナザレからベツレヘムへと向かう旅に出ます。その距離は、140~150キロほどでした。これは、東京駅から静岡市ぐらいの距離です。今だと、新幹線で一時間ぐらいでしょうか。しかし、当時はそのような便利な交通機関はありませんでしたから、徒歩だと、まる二日間、それも休まずに歩き続けてそれだけの時間がかかったようです。しかも、この旅はヨセフ一人ではありませんでした。5節には、このようなことが書かれています。「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである」。
 ナザレからベツレヘム、それは妻マリアとの旅でした。マリアは身ごもっていましたから、母子ともに守られるように、気をつけながら、気を遣いながら、という旅であったと思います。そのようにして何日もかけて、この夫婦は、ようやく目的地であるベツレヘムに到着しました。続く6節以下には、ベツレヘムでの様子が書かれています。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
 「ところが」という言葉で始まっています。「ところが」ということは、想定外のことが起こった、ということです。その想定外のこととは何か、というと、「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み」ということです。身重であったマリアは、このベツレヘムに滞在している間に、お腹の子が産まれた、ということです。
 ヨセフとマリアの夫婦は、ベツレヘムの旅を終えてナザレに戻ってきたら、自宅で初めての子を産むことになるだろう、と考えていたかもしれません。しかし、彼らの考えていたこととは異なり、旅先で産まれることになったのでしょう。これは、大変なことになりました。来週のクリスマス・イヴ礼拝では、クリスマス・ページェントを行いますが、クリスマスの生誕劇のクライマックスと言える場面です。妻のマリアは月が満ちて今すぐにでも子供が産まれてしまう。夫のヨセフは、これは何とかしなければ、と宿屋を一軒一軒訪ね歩きます。「お宅に泊まらせていただけませんか?身重の妻がいるのです」とヨセフが言うと、宿屋の主人は「あいにく、うちは満室です。どこか別の宿屋にあたってみてください」。そういう繰り返しで、ついには、どの宿屋もいっぱいで、泊まるところがなかった・・・。
 もう一度、6、7節をお読みします。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。産まれた幼子のイエスさまは、飼い葉桶に寝かせられた、というのです。飼い葉桶のある場所、それはどこでしょう。飼い葉桶とは、家畜の餌箱のことです。すると、幼子は家畜小屋で産まれたということです。
 私たちは、毎年のように、クリスマスの時期に、この聖書の言葉を読みます。そして、このようなことを考えるのではないでしょうか。「どうして、宿屋の主人はこの夫婦を宿屋に泊めてあげられなかったのだろう?私だったら何とかしてあげたかもしれない・・・」。そうでしょうか?でも、もしかすると、この宿屋の主人というのは、私たちのことかもしれません。宿屋は満室です、と宿屋の主人は言いましたが、私たちも、同じことを言うかもしれません。イエスさまが、私たちのところにおいでになっても、あいにく私の心は、私の人生は、私の生活は、別のことでいっぱいです。イエスさまをお迎えする用意はありません、イエスさまをお迎えする場所はありませんから、お引き取りください。
 しかし、そのような私たちに対して、聖書は繰り返し、繰り返し、語りかけるのです。イエスさまをお迎えしましょう、イエスさまと一緒に歩んでいきましょう、と語りかけるのです。11節には、主の天使が羊飼いたちに語ったメッセージがあります。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。ここに「あなたがたのために」とあります。「あなたがた」とは、すべての人のことです。イエスさまは、私たちとは何の関係もない方ではないのです。イエスさまは、すべての人の救い主として、神さまがお送りくださった方です。すべての人がイエスさまをお迎えすることができるように、私たちはイエスさまをお伝えしていきましょう。

(むすび)
今日の聖書にありました「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という言葉から、私は、ヨハネによる福音書の言葉を思いました(ヨハネ1章11節)。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
 アドベントの第一週の礼拝、12月1日の礼拝で、スティーブン・クンケル宣教師が語ってくださった聖書の言葉です。ここで「言」というのは、イエスさまのことです。イエスさまは、ご自分の民のところへおいでになりました。ご自分の民というのは、私たちのことです。すべての人のことです。私たちみんな神さまから造られたものです。私たちは神さまのもの、神さまの民なのです。けれども、民はイエスさまを受け入れなかった、というのです。しかし、神さまは、私たちのことをあきらめないのです(二ペトロ3章9節)。
3:9 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
 ペトロの手紙二の言葉を読みました。終末、終わりの日はいつなのか?と疑問を持った人たちに答えている言葉です。ここでペトロは、こう答えました。神さまは、終わりの日を遅らせているのではありません。神さまは一人も滅びないで救いにあずかるように、忍耐しておられるというのです。私たちのために、神さまは忍耐しておられる、待っておられるのです。神さまは私たちをあきらめない。この神さまの心、神さまの思いを私たちはおぼえたいと思います。そして、私たちも、私たちの愛する家族、友人、その一人一人の救いをあきらめないで祈り続けていきましょう、伝え続けていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 アドベントの時を過ごしています。クリスマスは、神さまが、私たちが罪から救われ、新しい命、永遠の命に生きるために、ご自分の大切なみ子を私たちにお送りくださった出来事です。どうか、一人でも多くの方が、み子イエスさまをお迎えすることができますように導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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